了ヒバ
まだそんなに仲良くない、同級生くらいの関係。
爪を切るのが苦手だ。
爪切りの刃をどれほど間に差し込んでいいものか分からず、結果血が滲む。
10本の指のうち、7本は深爪になる。そのうち5本は右手だ。
細かく切って丸くすることもできず、カクカクとした理想の爪の形とはほど遠いもので。
切り立ての爪は痛い。服に引っかけて綻ばせ、またうっかり体を掻こうものなら血が滲む。
切った爪が綺麗な放物線を描き、行方不明になることも多々ある。
うっかり踏むと、やはり足の裏に血が滲む。
爪切りはある種流血事件だ。そう月に何度も事件が起こっては堪らない。
京子に勧められて爪ヤスリを使ったこともあった。
みるみるうちに爪が短くなって行くのには驚いたが、止め時がやはり分からず、ややマイルドな深爪が完成するのだった。
粉まみれになる爪も気分が悪く、使わないでいるうちにそのまま爪ヤスリはどこかへ行ってしまった。
きっかけは委員会の集まりだった。
隣にいた雲雀に書類を回したところ、「不備がある」と突き返されたのだった。
「どこだ」
書類を見返して顔をあげたら、雲雀の姿はもう無かった。
「極限にぷんすかだぞ!!」
風紀委員室、もとい応接室の扉を思い切り開くと、目の前の椅子に座っていた雲雀が酷く迷惑そうな顔でこちらを見た。
「うるさいんだよ、存在が」
「無茶を言うな!!」
渡し損ねた書類を突き出して、「少しくらい待っていても良かったではないか」と文句を言うと「時間が勿体無い」と返される。
手元に目を落としたまま、雲雀は書類を受け取ろうと手を伸ばしたが、弾かれたように手を引っ込めた。
「静電気か?スマン」
「違う……何だ君、爪が」
手を丸めて指を見ると、爪がささくれだっている。
「スマン、引っかけたか」
「すまんじゃないよ。君ボクシングやってるんじゃないのか」
いつの間にか近くに来ていた雲雀が俺の手を取りまじまじと見つめる。
なんだか変な気分だった。
「その歳になって満足に爪の処理もできないのか。まさか歯で噛み切ってるんじゃないだろうね」
「雲雀じゃあるまいしそんなことするか。爪でこう、かりかりやって剥いたのだ」
「馬鹿なのか君」
溜め息をつく姿は心の底から呆れ返っているようで、爪切りが下手なことはそんなにも罪深いものだったのかと驚く。
いくら何でも大げさではないか。
「来なよ」
そう言って部屋を出て行く雲雀に問いかける。
「どうした」
「整えてあげる。少しはマシになると思うよ」
「お前は爪切り持ってるのか」
「持ってるわけないだろ」
放課後、生徒も減って静かな廊下には二人分の足音が響いた。
「帰宅しました」と書かれた扉を雲雀は無遠慮に開ける。
「保健室か」
「ここには何でもあるよ。大概ね」
我が物顔で棚をがちゃがちゃといじり、そのまま回転式の丸椅子に座る。
そして診察に使う簡易ベッドを指差した。座れということか。
浅く腰掛けると雲雀は手の平を差し出した。
犬のようにお手をすると「爪」と叱られ、そろそろと指を出す。
ぱちん、ぱちんと軽く、弾ける様な音が響く。
サッカー部だろうか、グラウンドから声がする。
雲雀は何も言わず、もくもくと手を動かした。
添えられた雲雀の指はすらりとしていて、ごつごつした自分のそれとは随分違う。
あれだけ俺を馬鹿にしたこともあり、爪は綺麗な形に揃っている。
以前テレビでマジックを見ているときに男のマジシャンの爪にマニキュアが塗ってあり、どうにも気味が悪いなと思ったものだが、さすがにマニキュアはつけていない。すこしほっとする。
「君、ちゃんと見てるの」
突然雲雀が口を開き、はっとする。
「み、見てるぞ」
「僕はただ君の爪を切るためだけにやってるんじゃない。やり方を覚えなよ」
「わかった!」
少しきまりが悪く、元気に返事はしたものの、もう8本目の指だ。
殆ど見ていなかった。
まさか雲雀の指をぼんやり見ていたとも言えまい。
もう決して短くない爪の先は、真ん中、左、右、と薄く切られて最後に削るように整えられた。
爪切りの後ろにあるぎざぎざ、やすりだったのか。
「はい、終わったよ」
そう言って雲雀はふっと息を吹きかける。
「おわっ!!」
「……なんだよ気持ち悪い声あげて」
「お前がっ」
「分かった?切り方」
「……」
「…………」
雲雀は睨む様な目で俺を見る。
迂闊なことは言えない。
「……まあ、コツは掴めたな」
「そう」
「君、コツは掴めたって言ってなかった?」
血まみれの俺の両手を見て、雲雀は無表情だった。
「実際、やってみると難しいものだな」
「……」
「雲雀は器用だな。先々週は大変快適に過ごせた」
「君が病的な不器用なんだよ」
どうやったらこうなるんだ、と雲雀は物珍しそうに俺を手を見た。
対照的な2つの手が重なる。
深爪をなぞるようにする雲雀に、思い切って口にする。
「もう一度やってみせてくれ」
続きます。